HIV・薬害エイズ情報
「薬害エイズ 東京訴訟の概要」
講義「薬害エイズ東京訴訟の概要」
弁護士 鈴木利廣
鈴木:本日は、薬害エイズ東京訴訟の概要について、講義をさせていただきたいと思います。私は、東京HIV弁護団の事務局長を現在まで、実質1988年から続けている弁護士の鈴木利廣といいます。
東京HIV弁護団というのは、東京HIV訴訟弁護団という場合もあるんですが、これは略称で、正式には弁護団を立ち上げる時に付けた名前は「血友病HIV感染被害救済弁護団」という名称だったんですが、大阪弁護団もできて、大阪HIV弁護団、東京HIV弁護団という略称を使うようになりました。
薬害エイズ訴訟に関しては、東京HIV弁護団編集「薬害エイズ裁判史」という、今から22年前に出た全5巻の本があります。そして、私たち弁護団が作ったパンフレットの追補版が2006年に出ています。さらにはこの出版が始まる前、薬害エイズ事件が和解で解決した直後に作った「薬害再発防止についての提言」というのがありました。
私たちは2002年にこの薬害エイズ裁判史を出す時にこの本の中に添付をすればよかったんですが、1998年に「人間の尊厳をかけて」という映像を作りました。当時はVHSビデオでしたけど、その後、DVDになっています。これだけではないんですけれども、さまざまな資料が残っていますし、はばたき福祉事業団の中にも展示されてると思いますので、ぜひ、薬害エイズを知りたい方についてはいろいろ参考文献なども見ていただければと思います。
今日は大体5つの項目で講義をさせていただきたいと思います。
①全面解決要求書があって、これは裁判が結審した直後に作ったものですけれども、どのような要求を裁判の訴え提起の時から持ってたのか。
②東京訴訟における戦略っていうのはどんな戦略だったのか。
③東京訴訟の具体的な経過、訴え提起までから、魚住裁判長の本訴訟に対する熱意なども解説させていただきたいと思います。
そして、④⑤はそのまとめですけれども、支援運動や和解後の出来事などについて解説したいと思います。
第1.全面解決要求書
95年3月27日。これは東京HIV訴訟が結審した日ですけれども、この日に公表した提訴以来の活動目的を文書化したものがあります。これは結審の時に初めてできた要求ではなくて、訴え提起の時からこういう要求を掲げて運動をしてきた。それをいよいよ社会的な運動によって、解決をしなければいけない時期が来たということで、95年3月27日の結審の日に記者会見をしながら公表したものであります。4つの項目になっています。
1つ目は、責任の明確化。訴訟によって、法的責任を明確化して、謝罪をさせるということです。2つ目は賠償。3つ目は恒久対策です。HIVに感染した人も人間の尊厳を守られて、生き続けられるようにする。さらには遺族の心の病もだんだんと軽くなるようにしていくと。こういうことが恒久対策と言われています。
4つ目は薬害根絶です。これまでも、実は戦後、いくつもの薬害訴訟が起きてます。訴訟にならなかった薬害事件もあります。現在進行形で、戦後80年近く、ずっと薬害は現在進行形で続いているということであります。これには製薬企業の体質や政府の体質などが関係してるわけです。裁判所の役割もあるわけですけれども、こういう薬害根絶というのも運動の目的にあります。
第2.東京訴訟における戦略
大きく分けると2つの戦略がありました。
1.損害賠償責任要件
1つ目は、損害賠償責任要件をどのように構成していくかということであります。HIVが出始めたのは1980年代初期からですので、後にHIVと名付けられるこのウイルスの対策を安全対策としてしなければいけないというのは80年代に入ってからの責任構成なのではないかってことを東京弁護団は当初に考えていました。
しかし、その前提としては血液製剤というのは、ウイルス感染の危険があるってことは、1960年代からずっと分かっていたことでありますので、前史としては70年代責任というのがありました。
東京訴訟よりも半年ほど前に提訴しました大阪弁護団の訴状の中には70年代責任論が中心で書かれているということがありました。従って、この70年代責任論と80年代責任論の両方を重複的に主張、立証していくということが重要なのではないかと思います。
この両方を主張することについては、東京の原告団の中でも、「血液製剤によって、肝炎に感染することはわれわれも知っていたし、そのことは自分らも受け入れたので、70年代に法的責任が国や製薬メーカーにあるということについて主張することは、疑問がある」というような意見もあったわけです。70年代責任論を立てていくことによって、その70年代責任論を仮に裁判所が認めなかったとしても、80年代責任論の中に70年代責任論を反映させていくということがあるので、重要なのではないかということで、この損害賠償責任要件っていうのをどのように構成するのかっていうのが1つ目の戦略でありました。
2.民事訴訟手続
2つ目は民事訴訟手続です。
(1)早期全面解決。できれば、2~3年でもって、全面的に解決するということが望ましいわけですけれども、1989年に訴え提起をした時、それまでの薬害訴訟は大体8年ぐらいから10年ぐらい、クロロキン事件なんかは20年ぐらいかかって解決。解決したとは言えないんですけれども、かかっていました。
従って、提訴から結審まで、私たちは3年ぐらいを目標にしていこうということで、結果的には結審まで5年5カ月がかかったわけですけれども、それでも当時の薬害訴訟としては最短の期間で、迅速な審理が充実化をもたらしたということになります。 これは当時、計画審理という言葉は使われていなかったんですけれども、私たちは1989年10月に訴え提起をした後、1990年の1月から裁判所との協議が始まるわけですけれども、第1回期日の90年の1月だったと思いますが、その時に裁判所に対して、審理計画に関する上申書を出しています。当時は審理計画・計画審理という言葉は民事訴訟法にもなかったんですけれども、要するに迅速な審理をお願いしたいということを言いました。
この計画審理っていう言葉は、当時は法律用語ではなかったんですが、1996年の改正民事訴訟法の中で初めて明文化されるということになります。この1996年の民事訴訟法の改正では、「大規模訴訟の審理に関する特則」という項目が出来まして、当時までの薬害訴訟とか、公害訴訟とか、さまざまな集団訴訟についての審理のやり方を民事訴訟法の中にもきちんと書き入れるということでもって、その後の法律の中にも書き込んでいただくようになりました。
当時はさっきも言いましたように、HIVに感染すると、エイズを発病した直後に亡くなるということがものすごく多くて、裁判期日が大体1カ月半から2カ月に1回、開かれるんですが、その期間の間に必ず1人か、2人が死んでるということになりましたので、とにかく、毎回の期日には死者が出てるということになるので、とにかく迅速な審理をしなければいけないということになりました。
当時、弁護団の中でも迅速な審理を裁判所に上申することは結局、拙速になるのではないかと。きちんとした審理が尽くされないままに早く終わって、敗訴になってしまうということで、懸念を示した意見も出たんですけれども、結果的に私たちが求めた迅速審理は審理の充実。早く終わらせるために充実した審理をやることによって、早く終わらせるというようなやり方でもって、審理の充実をもたらしたということになります。
当時の民事訴訟法の中にはなかったんですが、期日と期日の間に裁判所との打ち合わせという、今は民事訴訟法の中にこの1996年の改正の時に出てきた進行協議だとか、弁論準備期日っていう期日があって、法廷の公開の裁判以外に裁判所と当事者が協議をするという場が96年の民事訴訟法の中にも認められました。こういうのも薬害訴訟が始まったことによって、民事訴訟法手続も変わってきたのではないだろうかと。
私は昨年23年11月に「損害賠償訴訟と弁護士の使命」という本を出版させていただいたんですが、その本を読んだ元裁判官の方々が「薬害エイズ事件を計画審理でやったなんて知らなかった」っていうことを言っておられたようです。つまり、新しい96年の民事訴訟法ができて初めて、計画審理っていうのが医療事故などの専門訴訟を中心に進められてきたと思っていた裁判官。もう定年になった裁判官たちもそう思っていたようですが、私の本を読んでいただいて、薬害エイズが計画審理をやっていたなんてびっくりしたっていう、そういうようなことを言っていただきました。
これらは、私たち弁護団が月に1回の定例会議をやり、また、その間に班会議などを行って、さまざまな技術を弁護団会議の中で長時間やってきた。それを訴訟に反映させたという、弁護団全員のこの検討の結果ではないかと思っています。
(2)それから原告本人尋問。裁判官の説得です。
先に言ったように、1月半から2カ月に1回の法廷の間に必ず1人か、2人が死んでるという状況のなかで、私たちは第1回期日が始まった直後から証拠保全尋問という、エイズを発症して、もう亡くなるかもしれない、当時はエイズを発症すると数カ月で亡くなってましたから、エイズを発症したっていう人に関しては、証拠保全尋問ということを裁判期日外で、非公開の法廷でもって、あるいは病院のベッドのそばで、原告本人尋問をして、被害の実相を語っていただくというようなことをやっていました。大体、責任論立証で、専門家証人がかなりの数の主尋問、反対尋問をやった上で、原告本人尋問というのが行われるのが普通ですので、被害の実相を裁判所が知るのは、十分な形で知るのは結審間近っていうことになりますけれども、この訴訟の特徴は訴訟が始まった直後から、証拠保全尋問っていう形でやってきています。
この証拠保全尋問の、実は非公開の法廷でやったことを弁護団の内部でもって、情報を共有するっていうことでもって、全尋問を私はビデオに撮らせていただきました。このビデオで撮った原告本人尋問が実は裁判が終わった96年の直後にNHKスペシャルで放映されました。これも「薬害エイズ最後の証言」というテーマで報道をされ、病室や非公開の裁判所の中でもって、原告たちがどのような苦しみを語ったのかっていうことがNHKで放映されるということになりました。
この非公開のところでの私が撮った映像っていうのは、実は弁護団と原告団の中で共有するということが目的で撮ったのですが、その後、NHKの報道の方々と情報を共有することによって、ぜひこれを放映させてほしいということでもって、事件が終わった後ですので、これをNHKスペシャルで放映させていただいたということになります。
第3.東京訴訟の概要
1.訴提起まで
これも薬害裁判史の第1巻の中に書いてあることの一部ですけれども、87年1月にエイズパニックが起きました。このエイズパニックは86年11月の松本事件をきっかけに、87年1月に神戸事件、87年2月に高知事件、88年5月に大阪事件っていう、4つのエイズパニック報道がありました。当初は松本で水商売をやっていた外国人女性がエイズに感染したと。当時はエイズは空気感染するのではないかというようなことで、一般でも騒がしい情報でしたけれども、メディアがそれをあおるというようなことをやりました。このエイズパニック報道で、HIV感染者の人たちは表には出られないというようなことにもなったわけであります。
そして、エイズパニックの3つ目の高知事件という87年2月の報道は、実は結婚して妊娠をし、赤ちゃんを産んだお母さんがHIVに感染していたということでした。そこまででしたら、これまでも同じなんですが、実はこの方は結婚する前に血友病患者とお付き合いをしていたということで、この血友病患者が感染源であったということが高知事件の報道になりました。
私はこの高知の、その後亡くなられた血友病患者の方のご両親がわざわざ高知から私の東京の事務所まで訪ねてきていただいたので、私が当時はまだ、血友病患者も生きていて入院していました。そして私は高知に行って、この患者にお会いをしました。
病室はお1人の病室ですけれども、病室の中に、夏の暑い時に家の中にあった蚊帳を病室の中に入れて、看護師さんが食事を持ってくると、入り口のテーブルの上に置くと。そして、担当医が診療をする時にはこの蚊帳の外から声を掛けるというような形でやっていました。
実はエイズパニックっていうのは、報道や一般の人たちの差別意識なのではないかと思われてたと思うんですが、実は最も正確なHIV、エイズに関する知識を持っていた医療者、医師の方々が報道機関に情報を漏らすということで、こういうエイズパニックっていうのが起きたわけです。
従って、この患者差別っていうのが、正しい知識の普及によってなくなるかのようなことが言われてるわけですけども、実は正しい知識を最も持ってるはずの医療者たちが差別をあおるというようなことになりました。つまり、知識があることは必要ですけれども、人権意識を持たなければ、差別はなくならないということがエイズパニック報道で分かることになります。
88年5月大阪事件の直前にエイズ予防法という法案が国会に上程されることになりますが、HIV関係の、特に血友病の人たちは猛反対をするわけです。私もエイズ予防法案の国会上程があった直後に国会の中の参考人招致で意見を、弁護団からも保田行雄弁護士が国会で意見陳述をするということになりました。
そして、エイズ予防法が88年12月に成立してしまうわけですけれども、その直前に大阪事件という、水商売に通っていた男の人がエイズに罹ったと。水商売に行けば、必ず水商売の女たちはHIVに感染してるんだというような、誇大な誤った情報を流布するメディアの報道がパニックを生じさせたわけであります。
1989年3月、これは大阪訴訟が起こる5月の直前ですけども、私たちは約1年ほどかけて、東京弁護士会で「HIV感染被害をめぐる差別人権侵害事例集」というのを出しました。これは、薄いパンフレットなんですけれども、中間報告書。最終報告書は結局、出さずじまいになったんですけども、HIV感染をめぐる差別人権侵害事例っていうのは、血友病患者の事例なんかも含めて書いて、差別をなくしていかなければいけないということを出しました。
これは、ゴールデンウイークの後に東京も訴訟を起こすということを考えたものですから、訴訟を起こす前にエイズ差別のことをきちんと、対策を講じなきゃいけないということで東京弁護士会で検討したものであります。
しかし、89年5月の連休直後に大阪訴訟が提訴されました。私たちは大阪で訴訟を検討してるっていうことは知らなかったものですから、これはびっくりしたわけですけれども。当時、血友病患者の中には大阪・関西を中心にした血友病患者団体と、関東・東京を中心にした血友病患者団体はどちらかというと、対立的な感じがありましたので、東京で先に訴訟を起こされてはたまらんということで、大阪の2人が原告になって、大阪の弁護士に相談をして、大阪訴訟が、私たちから見ると、十分な訴状の検討をしないままに訴えたということですけれども、訴え提起をしました。
ところが、大阪弁護団は私たちが88年1月からずっと、訴訟検討をしてるっていうことは報道にも載ってますし、大阪弁護団は知っていましたので、大阪訴訟が提訴された直後に大阪弁護団から東京弁護団に対して、定期的な協議をさせてもらえないだろうかという申入が来ました。原告団は当時、対立意識を持っていたようですけども、弁護団は少なくとも連携すると。対立ではなく、ライバルとして国と戦うという、そういう意識で東京弁護団と大阪弁護団は定例的に年何回かの協議会を行ってきました。そして、その年の8月に東京弁護団が正式に発足をして、10月に提訴をしたということであります。
原告代理人は弁護士が30名でしたけれども、結審した時には54名になっていました。その24人増えたのは、毎年、新人弁護士に対して、研修会を行って、新人弁護士に入っていただくというようなことでやってきたわけであります。
2.東京訴訟経過
さて、訴え提起を89年10月にして、原告は14名でした。訴状は「薬害エイズ裁判史」の中にも書かれています。
原告のプライバシー保護についても書かれています。実は訴え提起をした訴状には別表で、原告の住所、氏名が全部書かれているわけなんです。14名。それで、この訴え提起をする直前に私は弁護団事務局長として、被告国の法務省、さらに被告企業5社に訪問をして、「10月に訴え提起をするけれども、その訴状には原告本人の住所、氏名が書いてある。これはプライバシーなので、訴訟が起きて、裁判所から訴状が送られてくるのではなく、代理人が裁判所に訴状を取りにいくという形で、その後はこの訴状は国・会社の中でも特別扱いでもって、一般の役人・社員が見られないような形にしていただきたい」ということを国を含めた被告6社に要望をしました。国をはじめ、どこも検討させていただきますということでもって、やりました。
そして、裁判を起こした直後、担当した東京地裁の民事部に私も行って、「訴状を出しましたけれども、この訴状には別表として、14名の原告の住所、氏名が書かれています。従って、まず裁判所ではこの記録を裁判所民事第15部のロッカーの中に保管していただいて、主任書記官と裁判官3人以外は見られないようにしていただきたい。そして、被告も裁判所に訴状を取りにくるということを要請していますので、取りに来た時に渡していただきたい」というようなことでもって、訴え提起の直前から直後にかけて、訴状があちこちに渡らないようにしました。
もちろん、訴え提起の時には原告の氏名の別表を外した形でメディアの記者会見はさせていただいたわけであります。
そして、90年1月にさっき言いました「本件訴訟の進行について」という計画審理の意見書を出して、1月に第1回期日が行われました。そして、2カ月後の3月には原告の証拠保全尋問。亡くなられる直前の方々の尋問をさせていただきました。
結局、95年3月の結審までの間に7回、7名の原告本人の証拠保全尋問をしています。全て私は映像に残させていただいたんですが、この7名のうちのお1人。遺族の方が「このビデオを渡してほしい、私たちの家族についてはこのビデオをなくしてほしい」と言われたので、私はお渡しをしましたので、現在は6名のビデオが倉庫に入っています。これが解決は3月でした。3カ月後のNHKスペシャル「薬害エイズ患者最後の証言」で放映をされるということになりました。
実は、私が残した映像の中に声があまりよく出ていない原告の方もいらしたんです。ところが、裁判所にはこの原告本人尋問の録音が全部、残っているんです。それで、私は裁判所にちょっとビデオで声が聞き取れないところもあるので、録音テープがあれば、録音を頂けませんでしょうかってことでもって、お1人、病院の病室でやった方の証言の録音を頂きました。それをまたNHKに渡して、NHKは映像の中の録音を、裁判所から頂いた録音に置き換えて、映像を作ったというようなことがありました。
そして、1989年10月に提訴したんですが、1990年4月に裁判官交代で、魚住裁判長に交代をしました。
実はこの間に、ここでは書いていないのですが、14名全員について「訴訟救助」という、訴訟を起こす時に1億1,500万の賠償請求をして、それに対する印紙代を払わなければいけないんですが、血友病患者も貧しい方々が多いですし、それから、闘病をずっと続けていかなければいけないということもありまして、この印紙代を免除していただくっていう、勝訴した時に払わせていただくという形で、「訴訟救助」という手続きが民事訴訟法にあるんですが、それを14人分申請いたしました。
そうしましたら、魚住裁判長の前の裁判長ですけれども、数名は訴訟救助するけど、それ以外については訴訟救助はできないという考えであるということを裁判所との打ち合わせの中で言われました。その時に実は弁護団代表をしていた渡辺良夫弁護士がいるんですが、もう亡くなりました。2005年5月に亡くなりましたけれども。この弁護士は自分が結核患者で、司法研修所2年で卒業できるところを6年かかって卒業したっていう。結核を病んでいたことがあって、朝日訴訟をはじめとする日本全国の社会保障裁判に全て関わりを持ったっていう弁護士でした。
この渡辺良夫弁護士が1984年の10月14日に名古屋駅の構内で、脳内出血で倒れました。しかし、その後、また現場復帰したんですが、半身不随で、しかし89年の提訴の時には弁護士に復帰していましたので、弁護団長をやっていただきました。
この渡辺良夫弁護士っていうのはすごい人なんですが、この人がこの訴訟救助について、血友病患者の14名の訴訟救助についてはほとんど訴訟救助を認めないという裁判官の意見に対して、コメントをしました。「訴訟救助は生活保護より厳しい要件なんですね」と言ったんです。そしたら、裁判長はぐっと黙ってしまって、「検討させていただきます」と言ったんですが、結局、全員が訴訟救助になったというようなことにもなりました。弁護団長をはじめ、さまざまな弁護士がいろんな形で、この訴訟に弁護士人生をかけたということがいろんなところで出てくるわけであります。
さて、90年4月に魚住裁判長に交代をしました。そして、8月には第2次提訴でまた14名、計28名の原告になりました。94年8月の第6次結審までに91名の原告。結審する時には91名の原告。そのうちの結審した原告は47人。全てではありませんでしたけど、47名でしたけれども、毎年のように新しい提訴をしてきていました。
そして、10月の第5回期日には東京地裁の大法廷に移りました。それまでは小法廷で20~30人ぐらいの傍聴席のある法廷でしたけども、大法廷に移ることになりました。
91年6月に第8回の期日で、専門家証人の責任論立証が始まるということになりました。この第8回から32回までの期日に証人10人。25回の期日で、証人10名の尋問をするということになりました(途中で原告本人尋問もあった)。
そして、本来であれば、第25回期日で和解による解決を目指すとすれば、弁論が終結する前後ぐらいに和解勧告をするというのが裁判所の通例になっていたわけですが、25回期日に魚住裁判長が責任論立証終了後の和解勧告を示唆しました。つまり、責任論立証が終わった94年12月には和解勧告をするつもりだということを裁判長は示唆したわけであります。
そして、93年12月からは原告本人尋問が始まるということになりました。証拠保全尋問と93年12月から94年9月までの約9カ月の間の本人尋問で、原告47名の尋問が行われました。
95年3月に結審するんですが、その直前、第33回期日にはNHKスペシャル「埋もれたエイズ報告」っていう、エイズの情報は厚生労働省はかなり前から知っていたのに、そのことを隠し通してきたというような報道がされて、そのビデオを裁判所に検証していただくということをしました。
NHKにも、この「埋もれたエイズ報告」は裁判所に手続きの中で検証していただくことを上申したっていったら、NHKとしてはそれは了解しましたということは言えませんので、表向き、一応裁判所にはこれは検証にしないでくださいという上申はしますけれども、適宜、お任せいたします、みたいな形でNHKは消極的には賛成していただいたと私は理解してるんですが、これが「埋もれたエイズ報告」のビデオ検証をすることになりました。
そして、95年1月。原告団弁護団が和解による全面解決方針を決定するわけであります。
実は95年6月にクロロキン薬害訴訟の最高裁判決が出て、クロロキン事件で国の勝訴が確定するわけなんです。そのことも弁護団の中では国に勝つことは難しいのではないか。国に判決で勝つことが難しいのであれば、和解のほうがいいのではないか。こういう意見も出てきたわけであります。
弁護団としては最終的に和解というのは譲歩するっていうのが常識になってますけど、こういう人権の事件についての和解というのは、判決で取れない要求を実現するのだ、だから、判決で負けるから和解のほうがいいという考え方では駄目なのではないかという意見で、弁護団の中では統一をしました。
つまり、判決っていうのは「被告らは原告に対して、金○○円を支払え」という金銭条項しか強制力がないわけなんです。ところが、責任を認めてお金を払うっていうことは判決でできますけれども、和解であれば、お金以外に先ほど言いました謝罪とか、恒久対策とか、再発防止っていう、特に薬害防止っていうのは判決では取れないことですので、そういうことまで含めて取るんであれば、判決ではなく和解ではないかということでもって、和解方針で行こうということに決めました。
3月27日、結審。原告数が47名ということになりました。東京原告団全面解決要求書を公表したわけでありますが、翌年の1996年2月に大阪原告団との共同要求書も公表するということになりました。
3.解決に向けた結審後の運動
95年3月に東京地裁が結審をしました。原告代理人弁護士は54名でした。30名から54名に増えたことになります。
4月には原告団が「薬害エイズ原告からの手紙」という出版をすることになりました。原告の被害、状況、何を考えているのかということを日本評論社から本にして、出版をしたわけであります。この本は裁判官にもお渡しをしましたけれども、やはり原告の被害をきちんと裁判所に伝えるってことが勝訴判決の土台になるということになります。
5月には全国会議員の面談活動を開始しました。国会議員全員。当時は確か720人ぐらいいたかと思うんですが、720人ぐらいの国会議員全員に弁護士、原告、支援の会の人。この3人が1チームになって、2つの衆議院議員会館、1つの参議院議員会館、この3つの議員会館を1日で回るというようなことをやっていました。私たちは国会ローラーと呼んでましたが、ローラーっていうのは石の丸い車でもって、踏みつぶすっていう意味なので、国会議員に言ってはいけない用語なんですけれども、「国会ローラー作戦」と言いました。
そして、その年の6月。翌月です。村山総理に面談をいたしました。この当時、村山政権で、自民党、社会党、新党さきがけ、この3つの連立政権で自民党は橋本総裁だったんですが、社会党の村山議員がこの時の総理大臣でした。
実は村山総理は大分の出身で、この村山総理の面談を仲介していただけたのが大分の徳田靖之弁護士でした。当時は村山内閣に薬害エイズの解決の申し出をするというようなことは表向き、まだ国会議員の同意が取り付けていない状況ですので、できませんでしたので、総理官邸の中で原告弁護団、5人ぐらいで、村山総理に面談をしたんです。
メディアにはちょうど6月が村山総理大臣就任1年になる時だったので、大分から「村山総理1年おめでとうございます」ってお祝いに来ましたっていうことを記者の人たちにいいました。総理官邸から出てくると、「どちらさまですか、今日は何しに来たんですか」って聞かれるんで、大分から村山総理1年のお祝いに来ましたと言って。新聞には首相の1日っていう欄があって、そこへ各紙は大分からのあいさつというような形で書かれていたんですが、実は大分合同新聞だけが東京HIV訴訟原告団弁護団、村山総理に面談と書いてあるんです。大分合同新聞が徳田靖之弁護士を総理に紹介したということのようです。徳田先生も翌日でしたか。この新聞記事を送っていただいたわけですけれども。
そして、翌7月には大阪地裁が結審をする。
そして、東京訴訟第6次提訴、和解までに127人が提訴していたということになりました。第6次提訴を東京地裁でしたってことです。それから、厚生省前の行動、「あやまってよ95、人間の鎖」っていう支援の会の学生の人たちが、すごく支援の会は多かったんですが、厚生省前に3,000人ぐらい集まって、「あやまってよ95、人間の鎖」っていう厚生省を取り囲むっていう運動をしました。
この学生の会が作った運動のスローガンは、「あやまってよ厚生省、何やってんのよ国会議員、頑張ってよ裁判所」。こういうスローガンだったんです。こういうことでもって、結審後、出版をしたり、国会議員の面談を開始したり、総理に会ったり、大阪地裁が結審したりしながら、また第6次提訴もしながら、厚生省前に3,000人ほどの人が集まるということになりました。
この時のことはよく、私も覚えていまして、実は70年安保の時代に東京大学とか、各地の大学がデモンストレーションを起こして、学生運動に機動隊が出ると。空にはメディアのヘリコプターが何機も飛ぶと。こういうことがあったわけですけれども。この「あやまってよ95、人間の鎖」の時には厚生省付近に機動隊の車が何台も駐車して、そして、空にはメディアのヘリコプターが空中に何機も飛んでるという、1970年前後から25年ぶりの社会運動だったんではないかっていう気がしていました。
支援をする会の人たちは、男女含めて学生がすごく多かったんですが、これはなぜかっていうと、薬害エイズの被害者の年齢がその当時の大学生の年齢に非常に近かった。その典型が川田龍平さんをはじめとする、同世代の原告の人たちでした。
実は、本当は専門家証人の尋問が終わった時に和解勧告するっていったのが延びました。そして、結審の時に和解勧告をするっていうのが裁判長の2つ目の意見でしたが、これも延びました。ところが、その背後で魚住裁判長が何をしてるのかっていうことは弁護団もあまりよくは分からなかったわけです。
結審してからは、この国会議員面談が始まった5月以降は1週間のうち、平日の5日のうちの大体2日か3日は霞ヶ関か、永田町に私もいたわけです。
当時、やっと広まり始めた携帯電話。
ものすごく大きい携帯電話に事務所から電話があって、「魚住裁判長からすぐ東京地裁に連絡をするようにという連絡がありました」ってことで、携帯電話から東京地裁に電話して、魚住裁判長がちょっといろいろ相談があるから来てくれと言って、弁護団の中にも何人か、携帯電話を持ってる連中がいて、その連中に「東京地裁、殿のお呼び出し」っていうことで、私は携帯電話をして。当時はまだメールがありませんでしたので、携帯電話をして、裁判所に行っていましたけれども、魚住裁判長が裏でどのような行動をしているのかは分かりませんでした。
それを初めて知ったのが、95年8月上旬でした。実はある新聞社の記者が法務省の役人から、「魚住裁判長が法務省に向けて、和解勧告所見原案というのを作って、こういうことで和解勧告をしたいけれども、いかがか」っていう意見を聞いていたらしいんです。それをある新聞社の記者の方が法務省の指定代理人に取材に行った時に(当時は連日、メディアは法務省とか、それから被告企業とか、原告団とか、裁判所などに取材をしていました)、取材に行って、魚住裁判長が8月2日提示をした、この和解勧告所見原案というのをその直後に新聞社が法務省の指定代理人(検察官)から手に入れて、私が入手することになりました。
この8月上旬に手に入れた、法務省に出した魚住裁判長の和解勧告所見原案というのは、最終的にこの年の10月に出る第1次和解勧告所見原案とほぼ同文。ほんの2、3カ所だけ、簡単な訂正があるっていうだけでもって、ほぼ同文なわけですけども、これを8月2日の日に提示して、その直後に新聞記者が手に入れて、その新聞記者から私が内密に頂いたわけであります。
そして、私はもう8月に入ると、裁判官はお盆休み。8月っていうのはほとんど法廷を入れないお休み。法廷をやらない日なんですけれども、魚住裁判長のところにお伺いをして、「魚住裁判長から法務省に和解勧告所見原案っていうのを提示したっていううわさがあるんですが、本当でしょうか」と聞いたんです。「えっ、何だそれ。どうしてそんなこと言うんだ」っていうことを言われまして、「そんなことあったかなってな」とぼけたんです、魚住裁判長。
そして、私が新聞記者から手に入れた和解勧告所見原案を魚住裁判長に提示をしました。「これは魚住裁判長が書いたものじゃないんですね」って言ったら、「なんだ、持ってるのか。これは和解が成立するまで、絶対に表に出さないでくれ。」こう言われたんです。それで、これを表に出さずに、弁護団の中で共有するという形になりました。
魚住裁判長がこれだけ厳しい和解勧告所見を――厳しいというのは、被告国に対して、厳しい和解勧告所見を書いてるということなので、東京地裁の魚住裁判長が和解勧告を出しやすいような状況をつくらなきゃいけないのではないかってことでもって、お盆休みの後の8月21日、弁護団が15人か、20人ぐらい集まって、裁判所に和解勧告上申というのを出すことになりました。
この時は、和解勧告所見上申っていうのを出すってことを司法記者クラブにも伝えましたので、映像にも新聞記事にもなっています。
そして、この年の10月に東京地裁および大阪地裁が同時に和解勧告所見を出します。つまり、魚住裁判長は国に対して和解勧告所見原案の検討を提示するだけではなく、大阪地裁との間でも合同で和解勧告をしようということで、大阪地裁を説得をしていた、いうことが分かります。通常の裁判ではあり得ないです。被告だけに提示をする。それから、同様の事件で、他の裁判所と協議をする。そんなことは司法の独立からいってあり得ないことだろうと思っていましたが、そういうことを魚住裁判長がしたわけであります。
そして、11月から和解協議が96年3月まで、5カ月間で19回の和解協議が原被告裁判所で行われました。
そして、12月にはクリスマスを前にして、第2回目の厚生省前の行動をやりました。学生のスローガンは、「人間の鎖、サンタも怒るよ、そりゃあんた」っていう、こういう若い、二十歳前後の学生たちが考えたことであります。
そして、正月明け直後ですけど、村山政権から橋本政権に政権交代をするということになりました。その時に橋本政権で厚生大臣だったのが菅直人議員だったわけであります。
この自社さ政権の中で、社会党とのつながり、自民党とのつながり、そして、新党さきがけとのつながりも私たち弁護団はずっとやっていましたし、新党さきがけは自民党との間で、橋本政権にするための政策協定をする。その最後に薬害エイズ事件を解決することというのを新党さきがけと自民党・橋本政権の間で政策合意をして、そして、菅直人議員が厚生大臣に任命されるということになったわけであります。
そして、2月には東京地裁において、原告11人と被告6社の責任者が直接面談をすることになりました。この直接面談も裁判所から、「これは絶対、表に明らかにしないでください」と言われました。そう言われたのですが、私にとってはこの被告6社の責任者がこの11人の原告と直接面談を東京地裁の会議室で行った時にどんな印象を持ったのかってことを知りたかったということで、先ほど、和解勧告所見原案を法務省の役人から入手していただいた新聞社の記者にお願いをして、この6者の自宅に行って、「今日、何かありましたか」っていう質問をしてくださいとお願いをしました。
この新聞社は5~6人の記者が手配をして、この被告6社の責任者の自宅に夜遅く行って、当時はそういう取材っていうのはよくあったみたいなんです。そして、その入り口で帰りを待っていて、「本日、薬害エイズについて何かありましたか」っていう問いかけをしたら、この6人が全員、それまでは立ち話で、入り口でちょこちょこっとコメントして、「じゃあな」ってことで別れていたようなんですが、その日は6人全員が「まあいいから、ちょっとうちに入れ。」と言われて、うちに入れていただいたと。そして、「実はな。今日、薬害エイズの原告と面談をしたんだ」ということを言って、その6者がほぼ全員、「自分が今ここで、裁判所が提案していただいた和解の決断をしなければ、この人の命を守ることにはならないということを自覚した」っていう趣旨のことをどうも言っていただいたようなんです。
実は、この2月の原告11人というのは、大分の原告の草伏村生さんをはじめとして、11人がずっと並んで、次々に短い言葉で一言ずつ、お話をしてるのですが、この時、私たち弁護団も参加をしましたが、私たち弁護団としては原告に「被告が加害者である。人殺しだというようなことは絶対に言ってはいけない。その被告の責任者の心に呼び掛けるような言葉をつくっていただきたい」とお願いしました。この時の直接面談の原稿は私の事務所にもまだ多分、残されてると思います。
草伏村生さんはいきなり腕を出して、自分の腕に注射をして、血液を吸い出したんです。まあ、びっくりしました。そして、彼はこう言いました。「人間の血液っていうのは本当はあったかいんですよね」っていうことを言った。これは、人間っていうのは元々暖かい生き物なんだと。心ある生き物なんだということを多分、言いたかったんではないかと思いました。
もうほとんど耳も聞こえない、目も見えないような、医科研病院に入院してる原告が救急車で裁判所まで来た人もまだ18歳ぐらいだったかと思いますが、「私はお金はいらない。命を返してください。」こういうようなことを言ったわけなんです。それでみんな、次々にそういう自分の思いを、相手に人間としての思いを、人間としての被告責任者に伝えるっていう形でやりました。
最後のほうでは2人だけ、「おまえらは人殺しだ」って言った人がいるんです。川田龍平親子なんですが。その後、川田議員も「鈴木先生には若いころからずっと逆らってきましたけれども、今は反省してます」と言っていただきましたけれども、川田親子だけが厳しい責任追及的な言葉を投げ掛けたわけであります。
被告責任者6人のうち何人かが、川田親子が話したことに、原告たちへの思いやりがだんだん出てきたところで、人殺しだって言われたんで、ふっと目が覚めたっていうことも言ってるんですが、結局それでも、目が覚めてもやはり、原告たちへの思いは消えないということでもって、被告の態度がだんだんと変わっていくってことになってきたわけであります。
さらには厚生省は訴訟において「確認できない」って言ってきた薬害エイズ関係の資料が大量に発見されたっていうことが菅直人大臣の指示によって、明らかになりました。菅直人大臣は就任後、厚生省の部局の責任者に対して、チームを作って、各部局のロッカーを全部、調べ上げると。そこに薬害エイズの資料があるかどうかってことを調べなければいけないという政策をやりました。それで、チームがある日、厚生省の全ての部局の部屋に行って、ロッカーを開けたらば、膨大な数の段ボールが出てきたと。その段ボールは全て薬害エイズの資料だった。こういうのが出てきたんです。
私は「確認できない」ということは、「調べたけどもなかった」っていう意味だって理解してたんですが、官僚が言う「確認できない」っていう言葉は、「調べると出てきちゃうから、調べない」っていう意味なんだっていうふうに思うようになりました。これは「役人学三則」にも出てきますけれども、役人の陥りがちなことなんです。そういうふうに発見されたわけなんです。
ところが、この資料ですが、本当に各部局のロッカーの中に分散して入っていたんだろうかっていうことになりました。これも、あるメディアの方から聞いたんですが、この薬害エイズの資料ができた部局の担当者に何人かに取材したら、「あのロッカーは昨日、開けたけれども、何も入ってなかったはずだ」と言っていたようです。
それが今日、菅大臣の指令で出てきた調査班が開けたら、ロッカーに何箱も入って、中が全部、薬害エイズの資料だったと。こういうふうに言われてびっくりしたということをメディアの人は官僚から聞いたっていうんです。
つまり、私の推測ですが、薬害エイズの資料はどこかに全てが保存されていた。しかし、それを隠してる。保存してるってことを隠して、訴訟で提出要請が出てる。裁判所から提出要請が出てるのにそれを出さないということで、さらに館内を菅大臣が調べるってことになると、出てきちゃうということで、いろんな部局が自分ところの関係の書類を、自分とこの部局のロッカーに入れていたっていうことにしなきゃいけないっていうんで、調べる前の日の夜中に全部、入れたのではないかという。これは、厚生省の隠蔽(いんぺい)体質そのものということになるわけであります。
さて、96年2月、原告団の座り込み行動が始まりました。3日目に菅厚生大臣が謝罪をすることになりました。東京・大阪の訴訟団(原告、被告、裁判所)が合同で、東京地裁で和解協議をすることが始まります。東京・大阪で合同で和解協議が始まるということは前例のないことでもあります。
それから、この菅大臣が2月の座り込み3日目に謝罪をするわけですが、この時の出来事について、少し裏話をお話しておきたいと思います。この菅大臣の右腕には枝野幸男議員という新人の国会議員がいました。この枝野幸男国会議員は弁護士でもあります。薬害エイズが始まってから、3年目ぐらいですか。弁護士になった人で、この枝野議員は国会議員に立候補する時から言っていましたけど、「自分は国会議員になりたくて、弁護士資格を取ったんだ」というふうに言っていました。この枝野幸男議員を介して、菅大臣との間で弁護団はいろいろ情報交換をさせていただいていました。
そして、座り込みは3日間と決めたわけではなくて、厚生大臣が謝罪するまで座り込みを続けると。「死ぬまで、座り込みはやるぞ」という勢いでやっていたわけです。3日目に菅大臣が原告の方々にお会いをしたいということで、厚生省の中の大きな会議室を役人に確保しろと言ったら、役人が「厚生省の中の部屋は1つも空いていません。会議室は全部、ふさがってます」ということを言ったということなので、そのことを私どもは聞いて、若手弁護士2人に帝国ホテルでもどこでもいいから、100人ぐらいは入れる会議室を確保しろと。金はいくらかかってもいいということでもって、探し始めました。その探していただいた弁護士の1人は水口真寿美弁護士ですけれども、そのことを枝野議員を通じて、菅大臣に言ったら、菅大臣が役人に言ったらしくて、その直後に役人から「1部屋だけ空いていました」というふうに言われて、部屋を確保していただいたと。その部屋は全て、椅子などを取っ払って、入れるだけ入れというような形で入るってことになりました。
3日目に菅直人大臣が原告団に謝罪をするってことは、枝野幸男議員を通じて、事前に私どもも知っていました。きちんと事実を見越して、国として謝るのか。それを私たち弁護団が同席をしてチェックをするということで、私たちも菅大臣との面談に同席をさせていただきました。もちろん、自民党・社会党の議員や枝野幸男議員などもその場に同席をしていただいたわけであります。
この時に東京原告団の遺族のお母さんが、自分の息子の遺影を持ってきて、菅直人大臣に対して、「大臣、この遺影は私の息子です。私の息子にも謝ってください」ということを言ったら、菅大臣はその遺影の前に来て、正座をして頭を下げたということもあるんです。それを見た、大阪の原告団の方々も、「私たちも遺影を持ってくればよかった」というふうにおっしゃっていたのは印象に残っています。
そういうことが終わって、東京、大阪の原被告、裁判所が合同で和解協議を始めるということになりました。そして、翌月。東京、大阪両地裁で同時に第2次和解勧告所見が出るということになりました。
この時まで、直前ですけれども、原告らは被告企業や国に対して、責任追及を求めてきたわけで、直接面談があった効果もあって、国はもう、謝罪をしてるわけですけれども、企業がまだ謝罪をしていない。いうことで、原告団が企業攻めを東京、大阪、熊本で行うことになりました。最終的に1社だけ、当日では謝っていただけなかった。後日でしたけれども、5社全社が謝っていただくと。しかも、ミドリ十字社は役員全員が土下座をするということにもなりました。
そして、3月29日に東京、大阪同時和解確認書が締結されることになりました。救済訴訟の最後の和解ですけども、2011年になりました。これはエイズ予防財団の去年の報告書によれば、感染者総数は1,433人。そのうちの死亡者は691人と報告書には載っていました。ほぼ2,000人くらいいるのではないかっていうことですけれども、1,433人が原告になって、和解をしたということになるんだろうと思います。そのうちの約半分、691人が亡くなってると。
実は東京原告団の中心である東京血友病友の会の関係しているある被害者の方は兄弟そろって感染をして、亡くなったんですけれども、「子供の命を金に代えることはできない」といって、訴訟には加わらなかったということもあるわけです。2人分合わせると9,000万円になるわけですけども、金額が多いとか、少ないとかっていうんじゃなくて、子供の命を金に代える、そんなことができるかっていう感じで。私も何回か、説得をさせていただいた記憶があるんです。原告になった1,433人が被害者の全てではないと。原告になっていない、賠償金を求めていない被害者の方々もいらっしゃるのだということになります。
4.魚住裁判長の本訴訟に対する熱意
裁判官っていうのは大体、3年で他の裁判所や部署に移転するっていうのが慣例なんです。従って、90年4月に着任した魚住裁判長は93年3月末に他の裁判所に移るっということが普通の常識になっています。
しかし、自分が他に移るかもしれない直前ぐらいから和解による解決をどうも目指し始めたようです。責任論立証が終わったら、和解勧告をしたい。あるいは、結審の時に和解勧告をしたいっていう、常にずっと和解勧告を念頭に置いて、訴訟を進行してきたということになります。
本来、93年3月末で他地裁に転勤の予定を、96年3月末までの担当を東京地裁の所長に要請したんです。これは、実は東京地裁の司法記者クラブに所属しているある新聞記者の方が、副所長が司法記者クラブのメディアの方々にいろいろ情報提供する機会があったようで、その時に副所長に「魚住裁判長は3年で転勤しなかったようですけれども、どうしてでしょうか」ってなことをお聞きになったらしいんです。そしたら、副所長が「実は魚住裁判官はこの事件をどうしても自分の手で解決をしたいので、もう3年、任期を延ばしてほしいってことを当時の東京地裁の所長に上申をした」ということで、東京地裁の所長は魚住裁判官の転勤を3年ではなく、6年に延長したと言っていたと聞きました。
こういう形で、魚住裁判官がいかに解決をしようとすることを望んでいたかっていうことが分かると思います。
実は魚住裁判官は定年前に辞職をしていて、自分の母校である京都大学法科大学院が2004年の4月から始まる時、2003年。ちょうど1年前の2003年の3月の末に裁判官を定年前で辞職をしてるんです。そして、自分の母校の法科大学院で、若い法律家を育てたいというふうにしていたんですが、2004年4月1日から始まる法科大学院の数日前、3月27日だったかと思いますが、魚住裁判官は亡くなりました。
4月以降、魚住裁判官のしのぶ会が行われて、そこに私も同席をさせていただきました。魚住裁判官が同じ裁判所の同じ世代の裁判官たちにどのように見られてるのかっていうことを初めて、その時に知りました。3人ほどの同世代の裁判長クラスの裁判官が弔辞を述べていただいたんですが、その3人ともが魚住裁判官の最大の功績は薬害エイズ事件を解決したことだと、こういうふうに述べていたんです。
つまり、魚住さんが自分の裁判官人生を懸けて、薬害エイズ事件を解決するということを周りも感じていたということなんです。魚住裁判官のその他の判決についても、私は医療過誤事件の判決なんかも見ていましたので、そういう医療過誤事件なんかでも、魚住裁判官とは話をしたことがあるんですけれども。でも、その医療過誤事件ではなく、薬害エイズ事件への熱意。そのものが魚住さんの裁判官人生だったということを知ることになりました。そういうこともあって、水面下での被告の国および大阪地裁との協議などもしたのではないかと思います。
魚住裁判官が東京地裁を転勤した後、3つぐらいの裁判所を回ってきたんですが。金沢地裁の所長、静岡地裁の所長でしたか、、東京高等裁判所に帰ってきてから、国の指定代理人だった厚生省副作用対策室長と、あるメーカーの訴訟代理人である私の同期の弁護士と魚住裁判官と私と4人で、飲み会をやって、あの当時、それぞれが何を考えていたのかっていうことを雑談するっていうことをやりました。皆さん、来ていただけたんですけども。被告国にとっても、被告企業にとっても、薬害エイズをああいう解決の仕方をしたことは良かったという趣旨で受け止めていたようであります。
魚住裁判官が亡くなった後、そのしのぶ会にも行って、ご家族の方ともごあいさつをさせていただいて、ご家族の方とも懇談をさせていただきました。その時、朝日新聞社の娘さんが、実は4,500万の和解金を読売新聞と朝日新聞がある月曜日の朝刊1面で、特ダネ・スクープとして報道するということがあって、そのことを私は朝日新聞と読売新聞から聞いて、魚住裁判官に真夜中に電話で報告をしたんです。
魚住裁判官はその記事は止められないかって言われたんで、無理だと思いますって言ったんですが、魚住裁判官はその後、朝日新聞社にいる娘さんに電話をして、明日の朝刊の記事を止めろというふうに言ったということを娘さんから、魚住裁判官が亡くなった後にお聞きしました。薬害エイズに魚住裁判官が懸けた情熱っていうのは、ご家族の中にも伝わったようであります。
第4.支援運動
こういうことをやってきたわけですが、弁護団も総力を挙げ、原告団も総力を挙げ、そして、支援する会も総力を挙げてきたということがこの結果なのではないかと思います。
1.支援の会
支援の会は90年4月に「HIV訴訟を支える血友病の会」が結成されました。そして、翌月に「HIV訴訟と歩む学生の会」が結成をされると。被害者原告の多くが大学生と同世代。その後、特に結審後に全国へ広がりました。
特に94年横浜での国際エイズ会議の際の集会では、2,000人が集まって、その他1,000人ぐらいの人たちが会場に入れなかった。その時に何人かの東京原告団の若手が壇上に、確か上がったようなことがありました。
2.原告の実名行動化による支援の拡大
それを見て、これは94年だったかと思いますが、川田龍平議員も――当時は議員ではありませんが、川田龍平さんも自分が名乗りを上げなきゃいけないのではないかというふうに思って、名乗りを上げたということをその後にお話をしていただいています。原告の実名行動化による支援の拡大というのもあったかと思います。
3.報道との協働
出版、テレビ、新聞。それから、著名人の応援もかなりいろんな方の、「徹子の部屋」をやっている有名な方も先頭に立って、薬害エイズを応援するという記者会見をやっていただきました。
4.政界の動き
自社さ政権による村山総理面談。そして、与党政策合意による薬害エイズ解決の合意によって政権交代。そして、菅大臣の謝罪。こういういろんなところに報道とか、政界などに呼びかけてきました。
第5.和解後の出来事
1.大臣協議
96年から毎年、大臣協議が行われました。この大臣協議も当時、96年の最初の大臣協議に菅直人大臣がいて、今後毎年、大臣協議を続けていただきたいっていうのが原告団の大臣に対する要望だったんですが、1回目の大臣協議の時に菅直人大臣は、「私が厚生大臣として、毎年の大臣協議を約束すると、私以後の大臣もそれに拘束されることになる。だから、お約束はできません」って言ったんです。
原告団はそれに腹を立てて、もう一度、大臣協議をさせていただいて、そこで菅直人大臣が今後も厚生大臣として、大臣協議を毎年のように続けるという約束をしていただいたということがありました。
2.法改正
1996年から民事訴訟法が改正されて、計画審理などが明文化されました。96年には薬事法も、不十分な改正でしたけれども、改正されました。
98年にはエイズ予防法廃止、感染症法が制定されました。
感染症法は私も参議院の参考人招致で意見陳述をさせていただいたんですが、その時は前文がありませんでした。そして、薬害エイズ原告団の中からも確か、大阪からも東京からも意見を述べたと思いますが、エイズ予防法廃止については賛成できますけれども、感染症法の中身については十分ではないという意見を述べました。
そして、国会が閉幕された後、臨時国会で、ある国会議員から私のところに連絡が来ました。前文を入れるので、それを見てもらえないだろうかということで、感染症法の前文には患者の権利の保障について、かなりきちんと書かれて。本文の訂正は非常に少なかったんですが、前文がすごくいいもので、この程度だったらば、何とかぎりぎりセーフではないでしょうかということで、私も賛成をしました。そして、臨時国会が開幕されて、感染症法案が継続審議になった時の条文を一部訂正された形で、感染症法が制定をされるということになりました。
3.エイズ治療研究開発センターの設置
エイズブロック拠点病院の整備(1997年4月)
4.「誓いの碑」の建立
翌年の99年には8月24日、厚生省の敷地の中に薬害根絶のための「誓いの碑」が建立をされました。この誓いの碑にはサリドマイド、スモン、薬害エイズが明記されているんですが、最高裁判所で国が勝訴したクロロキンに関しては薬害の中に列記されていません。国は国賠訴訟で負けた事件だけが薬害だというような狭い考え方を持っています。
それから、この時の99年の誓いの碑の中で初めて、「薬害」という言葉が使われたんです。それまでは厚生省は公式の文書の中に「薬害」という言葉を使わなかったんです。医薬品の有害作用的な言葉でしかなかったわけなんです。
第6.まとめに代えて
以上のお話ししたことが薬害エイズ事件のひととおりの経過でした。東京HIV訴訟を中心に解説をさせていただきました。
この講義は原告団およびはばたき福祉事業団から、現在活動している方々の中に和解解決の前から原告だった人は極めて少数になってきたということで、和解までの経過について、知らない原告の方々も少なからずおられるのではないかということで、薬害エイズ東京訴訟の89年10月提訴の前後から、96年3月和解解決の前後まで、どのような活動をしてきたのかということを概略解説をさせていただきました。
ご清聴ありがとうございました。
*この文章は、2024年9月11日講義の録音を文字起こししたものに修正・加筆をしたものです。